罰則条項 一歩を踏み出す足が、酷く重くても、向かうべきものから逃げてきた事などないと言い聞かせて、また踏み出す。 そうして、響也は、剥き出しになった鉄錆色の階段を登りながら、大きく溜息をつく。剥げた塗装が手について、ガサガサとした嫌な手触りだ。 ともかく、一段登っては足を止めるような有様だったので、目的の扉にたどり着いたのは随分と時間を費やした後で、こんなにも意気地のない男だったのかと自嘲の笑みすら浮かんでくる。 それでも、此処へ来た目的を忘れなかったお利口さんの頭は、身体にノックするように促すから、告げられた通りに扉を叩いた。お嬢ちゃんか、おデコくんが出てくれればいいという淡い期待は、しかし一瞬で砕かれる。 返事がくることもなく、唐突に開かれた扉から顔を覗かせたのは、この事務所の所長『成歩堂龍一』。 裁判所で見掛けたのと同じ、趣味が良いとは評価し難いニット帽子とパーカー。素足につっかけた履物が、ぺたりと床に落ちれば、つま先に乗っけて次の一歩を踏み出した。 そして、惚けたような表情は、響也の顔を見ても変わる事はなく、「ああ」という呟きだけが響也の耳に届いた。 「何?」 と、問い掛けられた気もしたが、変わらない表情に、錯覚だったのかとも思う。 沈黙が落ちる。 用があるのは自分だからと、響也は口を開いた。 「成歩堂…弁護士。」 響也がその職種を名前に付けた事から用事は知れたのだろう。成歩堂が、ふっと口端を持ち上げた。 「僕は、貴方に。」 兄の非礼を、自分の無能さを詫びなければならない。 どれ程に人生を狂わせてしまっただろう、この男に対する贖罪は、自分の義務のはずだ。 「汚れた弁護士でいいんだよ?」 ビクリと肩が揺れた。罵詈雑言は覚悟して来たはずだったが、面と向かうと流石に震える。 「理屈って奴を言おうか? 法的に見て、君に非はない。 牙琉は、それまで犯罪歴は無かったし、正当な情報源としても間違ってはいなかった。それに、裁判所に正式に登録してある証拠品を弁護士に見せたところで、直接的に罪に問われる事などない。」 悪意を持って、捏造するかどうかなど、推測の域を超えていたと定義されればその通りだ。 それに、あの場合、被告人である『或真敷ザック』が、保持していた本物を出すことで、捏造品を弁護士側が提出する必要性もないし、被告人の無罪も簡単に証明された。 たとえ、弁護士側が捏造品を出した後であろうとも、本物が出てくれば、「牙琉検事」が、弁護士を罠に嵌めたように見えただろう。 要するに、一連の奇妙に入り組んだロジックが、上手く事を運ばせたに過ぎないと事実が語っている。 だからこそ、彼が告げる通り、響也は『罪人』にはなっていない。 そして世論の風向きも「響也」に味方した。 正式な場で、正式に兄の罪状を明らかにしたというイベントが「不正の蔓延る司法と検察のイメージ」を一時的にでも国民感情から払拭する効果をもたらしたようで、マスコミの対応も好意的だ。 笑い話に近いが、まさしく「風に聞いてくれ」だ。 最も、響也自身が未だにメディアに追われているという事実には、変わりはないのだが。 それにね。…続けられた言葉に、響也はハッと思考を止めた。 「ずっと、僕の事が嫌いだったでしょ? 弟くん。」 指で顎を撫で付けながら、成歩堂は笑っていた。その顔を、響也はただ見つめる。どんな返答が相応しいかなど、響也の頭には欠片も浮かばなかった。 「まぁ、仕方ないかな。僕も…。」 クスリと成歩堂は目を細めた。七年前、『若い』と自分を窘めた男の表情が甦る。 「僕も君が嫌いだから。」 ◆ ◆ ◆ 好かれているなどと、欠片も思っていなかったにも関わらず、酷く動揺している自分に呆れた。もしかしたら、世間的に許容されているのだから、彼にも…などと言う甘えた考えを持っていたのかもしれない。 至極当然の言葉を返されたのだ。 これが、そう、当たり前だ。 それでも胸の憔悴感は拭い難く、自然に足は繁華街に向いた。誰かを誘って、愚痴ろうなどとも頭に浮かばず、ひとりで適当なのれんを潜る。 格子戸を一歩踏み込めば、一斉に声が飛んだ。 歓迎の挨拶なのだろうが、怒鳴り散らしているようにも聞こえた。それだけ、店内は賑わっていて、響也に連れがいない事を店員に告げるのも、大声を出さなければならなかった。 案内されたカウンター席につけば、業務的に付きだしが置かれる。 割り箸を探して、キョロキョロしている間に、ジョッキに注がれた生ビールがドンとテーブルに置かれた。 陶器で出来た小瓶が幾つもおかれた木製のトレーに隠れていた割り箸を見つけたのはその後、ばくりと摘みを口に運んで、響也は苦笑した。 こんな風に、ひとりで酒を飲むのは初めてなのだと気付いたからだ。 恋人がいれば彼女と二人だったし、大概はバンドのメンバーと一緒だった。兄とだって酒を交わした事くらいある。 けれど、相棒であった大庵は獄中。バンドは解散。近頃付き合ってもらっていたおデコくんとも、先だっての成歩堂との会話以降は、声も掛けづらく、疎遠になっている。 ひとりぼっちの上、酒で人生を慰めて貰おうなどと、随分と気弱になっているものだと苦笑した。 それにしたところで、もっと静かなところへ来れば良かったのだ。ひとりでじっくりと飲める場所へ。 何故こんな喧噪の中にわざわざ足を運んでしまったのかと思い直し、握ったジョッキの中味を空にしたら河岸を変えようと決めた。 出されたものは取り敢えず残さないというのは、響也の性格だったのだが、今に関して言えばさっさと見切りを付けるべきだったのだ。 チラチラと様子を伺っていた男が、にやにやと笑みを浮かべながら、わざわざ声を大きくした。 「俺達の税金で喰ってるくせに、まだまだ稼ごうって奴もいるんだからね、俺達が貧乏なはずだよなぁ」 おい、お前酔ってるぞ。やめとけって。 同僚らしい人物達が視線を滑らせてから、その男を留める。 「単なる愚痴じゃないか。それとも俺達は、愚痴も言っちゃいけないってのか? 金のない奴は発言する権利もないのかよ。」 直接絡んでくる訳でもなく、ただ当て付ける言葉を吐き出す男を響也は捨て置いた。愉快な気分には到底なれはしなかったけれど、こんな事で満足して解放してくれるのなら、それはそれで良いと響也は思う。 荒んだ気分というのは誰にでもあって、それは自分も同じ事だ。ただ、今、自分はそれに対して憤り、怒りを返すエネルギーが無い。ただそれだけだ。 人生は思った通りにはいかない。 それは今、響也にあてつけている男だけではなく、響也自身が痛烈に感じている事実に違いないのだ。 しかし、相手にすることなく店を出た響也に、酔っぱらいは満足しなかったらしい。 無視…というのも立派な反抗の手段として認識されるのだと思い出したのは、店の外で男に肩を捕まれた時だ。 「俺知ってるぜ、なぁ、アンタ。公務員はアルバイトしちゃいけないんだよねぇ。駄目じゃないすか、自分で法律破っちゃ。」 酒臭い息が絡まる。流石に響也の顔も不快感で歪んだ。 「そうだね、USAでは許可されているよ。」 「欧米か」 すかさず、流行のツッコミが入る。 酔っぱらい達の、質の悪い下卑た笑い声が周囲に響いた。 笑い者になるのは不愉快だった。けれど、ぎゅっと捕まれた肩がそれ以上に嫌で、腕を以て払いのける。 そうして気付くのだ。こんな場面で対処してくれたのはいつも「大庵」だったのだと。喪失感と共に認識する事実に、対処するすべもない。 真っ赤になって怒り出した酔っぱらいを、周囲の人間が宥めている。 通行人が足を留め、ちょっとした騒ぎになりそうな状態に気がついて、響也は踵を返して、場を立ち去ろうとした。 「逃げんのかよ!」 何処かの三下の悪役が吐き出しそうな台詞と共に、押し止めていた人々を弾いて、男が殴りかかってくる。 サングラスの上から顔を殴られたら、ちょっと痛いかもしれないと響也は思う。それでも、身を引くのも面倒で、ただ目だけは閉じた。 content/ next |